引又観音堂と「引又」の由来

引又観音堂

新河岸川と柳瀬川が合流した少し先の右岸に佇む引又観音堂(Googleマップのリンク

中には聖観音と両脇に馬頭観音

観音堂自体は昭和42年建立だそうですが、聖観音は元禄十年(1697)と刻まれており、300年以上にわたって新河岸川の舟運を見守ってきたそうです。良いお顔の観音様

となりには水神宮

引又河岸

江戸時代、このあたりは引又河岸として舟運で栄え、「所沢・八王子・青梅などのほか、遠く甲府まで荷主が分布していた」とあります。そういえば、村山快哉堂に展示されるつるし飾りは静岡が発祥の地の一つだそうですが、甲府は静岡に近いので、このルートで当地までつるし飾りが伝わったのかもしれませんね

「引又」の由来はヒキガエルのマタ?

ところで、「引又」とはどういう意味でしょうか?広辞苑や漢字源には載っていなかったので一般的な言葉ではないようです。志木市のサイトの志木市の歴史というページに解説がありました。以下に引用します

引又は、曳跨と書くのが正しいという説もあります。この説によれば昔から船が新河岸川を溯上する際、船の水手が綱を肩にかけて川縁を川上へと船を曳いて登るにあたって、柳瀬川との合流地点を綱で曳きながら跨ぐところから曳跨という地名が生まれたということですが、東明寺にある寛文7年(1667)の庚申供養地蔵(市指定文化財)に刻まれている「蟇俣」の文字が示しているように、新河岸川と柳瀬川の合流地点付近の地形が蟇蛙(ひきがえる)のはいつくばった形に似ているところからきていると見た方が自然であると思われます。

「曳跨」説も説得力はありますが、実際にその文字が残っている「蟇俣」説のほうが有力でしょう。近所の敷島神社にある田子山富士塚の説明板に昔の川筋の図が載っていました。「河岸場」と書かれているあたりが合流部で、現在より少し西よりなっていますが、当時の人々がこの部分をヒキガエル(蟇)のマタ(俣)のようだと形容したのが由来で、次第に書きやすい「引又」になっていったのでしょう

東明寺の庚申供養地蔵

「蟇俣」の文字が残る貴重な文化遺産、東明寺の庚申供養地蔵(Googleマップのリンク)。引又観音堂の聖観音の30年前の1667年建立

右側の赤枠で囲ったところに「武刕新倉郡蟇俣村」(ぶしゅうにいくらぐんひきまたむら)と刻まれています

「蟇俣」の部分を拡大してみました、確かに書いてありますね。

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>今井あさと

今井あさと

埼玉県志木市在住。敷島神社の近くに住んでます。27年間ほど都内の私立高校で非常勤講師をした後にフリーランスのプログラマを経て現在はほぼ休業中。非正規一筋の人生です(笑

非常勤講師で教えていたのは公民科(政治経済・現代社会・倫理など)。今でも政治や社会に強い関心があり、志木市の政治についても詳しく見てみようと思いこのようなブログを立ち上げました

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