旧西川家潜り門と武州世直し一揆

  • 2021年5月16日
  • 2021年5月23日

旧西川家潜り門

市場通りの端にある文化財の旧西川家潜り門、歴史的情緒のある文化財だなと思うくらいで、ただ通り過ぎるばかりでしたが、ちょっと立ち止まって解説文を読むと面白いことが書いてありました

解説文の真ん中あたりに

建築年代は、武州一揆の刀の傷跡が扉や柱にみられることや伝承などから、慶応二年(一八六六)頃と推定されます

武州一揆の刀の傷跡!いったいどこにあるのかと見てみると、確かに刀の傷跡かもしれないと思われるものがありました

拡大すると

この傷跡が解説文がいう傷跡なのかはわかりませんが、この門は歴史的建築物としてだけでなく、150年以上前の人々の「世直し」「世均し(よならし)」の願いを今に伝える文化遺産でもあったと思うとちょっと胸アツな感じがしました。京都には明治維新当時の動乱の刀傷と言われるものが残っていて観光資源になっているそうですが、武州世直し一揆の痕跡だってそれに劣らない価値のある歴史の痕跡だと思います

武州世直し一揆

武州世直し一揆について概略を簡単にまとめると

  • 1866年6月13日に発生した幕末期最大の一揆
  • 秩父郡上名栗村(現埼玉県飯能市)で発生、7日後に鎮圧されたが、その短期間で爆発的に拡大
  • 武蔵・上野・下野・相模・常陸の関東5ヵ国の民衆約10万が参加
  • 民衆は「世直し」「世均し(よならし)」を呼号
  • 米の安売り・施金・施米・質地証文や借金証文の廃棄を求めて打ちこわしを行った
  • 志木(当時は引又)には6月15日に波及

背景には第2次長州征伐等の動乱で米価が高騰し、民衆の生活が苦しくなっていたことがあったようですが、事前に計画があったわけではない突発的な一揆がわずか7日間で約10万人に広がっていった、他に情報手段を持たない民衆に、口伝えで情報が伝わるやわれもわれもと参加が広がり、まさに燎原の火のようなすさまじい勢いで一揆が燃え上がっていったことに、当時の民衆の苦しみと怒りが伝わってきます。飯能から志木は直線距離で約23km、この距離をわずか2日で駆け抜けたのは情報というより怒りだったのではないかと思います

世直し・世均し(よならし)

江戸時代、農民一揆は3000件以上発生したと言われています。自分たちが一生懸命働いて年貢を納めてもいわゆる「胡麻の油と百姓は絞れば絞るほど出るものなり」型の圧政で自分たちの暮らしは少しも良くならない。いい加減にしろ!もっとまともな世の中に作り変えたい!そんな願いが「世直し」という言葉になって叫ばれるようになっていった。また、一方では豪農が地主・高利貸し・買い占めなどで富裕化し、農民たちは小作料や借金に苦しみ困窮が広がってゆく、こうした貧富の差の広がりに対する怒り、富の均等を求めた願いが「世均し」という言葉で叫ばれていった。一揆に対し、武士側は鉄砲や大砲などの圧倒的な武力をもって対峙するわけで、一揆は常に鎮圧されその度に指導者は死罪にされていった。そうして一つの一揆は鎮圧されてもやはり圧政への怒りは蓄積し、やがてまたどこかで一揆となって爆発する、何度鎮圧されてもくり返しくり返し一揆はおき続けた、なぜなら、まともな世の中で暮らしたい、そのために世の中を作り変えたいという願いは人間の本質的な願いだからでしょう。「世直し」、私はこの言葉大好きです

現代においても政府が格差を放置し福祉を切り捨ててゆく中で苦しんでいる人たちがたくさんいます。子どもの世界にまで格差が広がり日々の食事さえままならない、経済大国で欠食児童という矛盾が放置されている現状、「世直し」「世均し」はまだまだ終わったとは言えないのではないか?旧西川家潜り門の傷を見てそう思いました

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>今井あさと

今井あさと

埼玉県志木市在住。敷島神社の近くに住んでます。27年間ほど都内の私立高校で非常勤講師をした後にフリーランスのプログラマを経て現在はほぼ休業中。非正規一筋の人生です(笑

非常勤講師で教えていたのは公民科(政治経済・現代社会・倫理など)。今でも政治や社会に強い関心があり、志木市の政治についても詳しく見てみようと思いこのようなブログを立ち上げました

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