白井武左衛門といろは樋

白井武左衛門供養塔

志木は街なかを歩いているといろいろな文化財の案内があるのがいいですね。白井武左衛門供養塔もその1つ、住宅街の中にぽつんとあるのでわかりにくいですが、 所在地は埼玉県志木市下宗岡2丁目12−28(GoogleMapにリンクしてます)、宗岡のヤオコーの近くです

入口となっているので入って行くと、畑があってそのまま進んでいいものかちょっと迷いますが、畑の脇を直進して突き当りから右に進むと小さな墓地があり、その奥に白井武左衛門供養塔があります。左が供養塔で台座には白井武左衛門の文字が読めます。花も手向けられていました

志木市にはいろは商店街やいろは橋などがありますが、この「いろは」の由来になったいろは樋を作ったのが白井武左衛門さんだったんですね

いろは樋

いろは樋について概略をまとめると

  • 江戸時代、松平信綱(官職:伊豆守、才知にたけ知恵伊豆などとよばれた)が玉川上水から新河岸川につづく野火止用水を作る(1655年)
  • 野火止用水は24kmもあるが標高差を利用していたので堀を伸ばして行けば自然に流れた(工事も40日で完成)
  • 野火止用水の堀は新河岸川にぶつかったところで川に合流して終了したが、その対岸の宗岡は水の便が悪く農民も困っていた
  • 白井武左衛門は松平信綱の許可をとり新河岸川を渡る樋を作って野火止用水の水を宗岡まで流すことを計画
  • 当時の新河岸川は舟運で栄えていたので樋は舟運を妨げない高さにする必要があった
  • その結果、全長260m、水面からの高さ4.4mの巨大な樋を完成させた(1662年)
  • この樋は48の樋を連結したのでいろは48文字から「いろは樋」とよばれた(長さから百間樋ともよばれた)
  • いろは樋によって宗岡の水利は大きく改善し収穫が増大した
  • 宗岡の人々は150年以上たっても白井武左衛門への感謝を忘れず、いろは樋建造から151年後(1813年)に白井武左衛門供養塔を建立

この水が届けばより多くの人々のためになると考え、それを実現した白井武左衛門さんは素晴らしいと思います。また工事を行ったのは多数の職人だと思われますが、川を渡る260mの樋を作る技術力は大変なものだったと思います。職人の国、技術立国日本の伝統を見る思いがします

志木市の郷土資料館には貴重な写真と絵図が展示されていました。写真を見ると真ん中のあたりの脚の間隔が広がっていて舟が通れるようになっていることが見て取れます

参考リンク

志木市
いろは樋のい・ろ・は
荒川上流河川事務所ホーム > 荒川を知ろう > 荒川上流部改修100年 > 100ネタ
いろは樋
野火止用水
Wikipedia
いろは樋
白井武左衛門

松平信綱・白井武左衛門頌徳碑

下ノ氷川神社(埼玉県志木市下宗岡4丁目7−43)にも松平信綱・白井武左衛門頌徳碑(しょうとくひ)という碑があります。碑には百足高徳彦命と時良玉明彦命と書いてあり、ぱっと見にはなんの碑なのかわからなかったのですが、裏をみると…

ちょっと読みづらいのですが、以下のような碑文が読み取れました(○は判読できず)

・・・白井武左衛門本村水利に乏を憂ひ信綱に説き伊呂波樋を架して伊豆殿堀の流末を引き入れ灌漑に便にし旱魃に備へ又佃堤新田堤を創築し水害を防ぎ荒地を開墾せしむ実に今日の美田瑞穂これに氏○賜なり矣依て茲に松平信綱○に百足高徳彦命に白井武左衛門殿に時良玉明彦命に祀り遺徳を不朽に傳ふ・・・

これを読むと、伊豆殿堀(野火止用水)を作った松平信綱(伊豆守)とそれを伊呂波樋で宗岡まで伸ばしてくれた白井武左衛門への感謝の碑であることがわかります。1908年(明治41年)建立なので江戸時代の身分制度は終わっているとはいえ、老中で川越藩主でもあった信綱と同列に祀られているあたり、白井武左衛門がいかに尊敬・感謝されていたかが伺えます

いろは樋は洪水で何度も壊れ、その度に多額の費用をかけて修理を繰り返していたそうです。当時の人々にとってはもはや欠くことのできないインフラになっていたのでしょう。やがて鉄管にかわり潜管に改修され、1965年に野火止用水が下水の暗渠に改修されたことにともない止水、実に303年間も宗岡の地を潤し続けた歴史が胸にじわっと来ました

白井氏治水碑

松平信綱・白井武左衛門頌徳碑のすぐ近くには白井氏治水碑もありました。こちらは1910年(明治43年)建立。右奥に見切れているのが松平信綱・白井武左衛門頌徳碑

いろは橋

かつていろは樋があったすぐ近くに架かっているいろは橋の欄干はいろは樋を記念したデザインになっているそうです。いままで何度も渡っていて全然気が付きませんでしたが、改めて見てみると、この欄干、樋になっていました

橋の入口にはいろは樋のレリーフも

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