2つの富士塚と胎内信仰

志木には2つの富士塚があります。日本には古くから富士信仰がありましたが、江戸時代から明治にかけてミニチュアの富士山を作ってお参りする富士塚が主に関東各地に作られました。富士塚は単なる築山ではなく、富士山を模して山頂の浅間大神や中腹の泉滝・烏帽子岩なども備え、頂上からは富士山を拝める必要があったそうです

田子山富士塚

現存する富士塚のうち、国の重要有形民俗文化財に指定されているものは5つあり、そのうちの1つが田子山富士塚です。田子山富士保存会の方たちが整備されていて友引と大安の日には登山することができます。明治5年(1872)に高須庄吉を中心とする丸吉講によって築造されました

裏手に回ると何やら閉ざされた入り口のようなものがあります

これは御胎内への入り口(現在は入ることはできない)

外側を富士山に模すのみではなく、地下まで本家に近づけようとするこだわりに、作った人たちの信仰の篤さが感じられます

羽根倉富士獄

羽根倉浅間神社にある富士塚です

頂上の浅間大神と中腹の烏帽子岩が見えます

田子山富士塚の8年後、明治13年(1880)に上宗岡丸籐講によって築造、二度も移転を強いられながらも熱心な信仰によって保存されてきた。写真の説明によると、こちらにも胎内穴があるようです。田子山富士塚の御胎内もこちらの丸籐講の人たちによって掘られたとありました

溶岩樹型と胎内信仰

溶岩樹型とは噴火によって流れ出た溶岩が樹木を飲み込んで固化し、中の樹木が燃え尽きてできた洞穴で、富士山周辺には多数あり、船津胎内樹型(43の洞穴群)は現在国の天然記念物に指定されている。洞穴の複雑な形を人の胎内のようだと見て、そこに入って出てくることで、赤ちゃんのように清らかな心になって生まれ変われるという信仰が胎内信仰。そして、安永元年(1772)に船津胎内樹型の最大の洞穴を胎内穴とよび、この胎内潜(たいないくぐり)の信仰をはじめたのが丸籐講の講祖高田藤四郎(日行青山)。丸吉講が作った田子山富士塚に丸籐講の人たちが御胎内を掘ったのにはこういう背景があり、丸籐講にとっては胎内穴が富士信仰に欠くことのできないものだったからなのでしょう

また、明治25年(1892)には富士山の麓(富士吉田市)に新たに吉田胎内樹型が発見され、これが新たな胎内信仰の場となりますが、これを発見したのが、埼玉県入間郡宗岡村(現志木市宗岡)の丸藤宗岡講社の星野勘蔵(日行星山)でした。吉田胎内樹型は現在世界遺産富士山の構成資産の一つになっているそうですが、これを発見したのが志木の人であったことに驚きました。おもしろい縁だと思います

参考資料
溶岩洞穴をめぐる信仰 ー 富士山世界遺産センター
吉田胎内樹型
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>今井あさと

今井あさと

埼玉県志木市在住。敷島神社の近くに住んでます。27年間ほど都内の私立高校で非常勤講師をした後にフリーランスのプログラマを経て現在はほぼ休業中。非正規一筋の人生です(笑

非常勤講師で教えていたのは公民科(政治経済・現代社会・倫理など)。今でも政治や社会に強い関心があり、志木市の政治についても詳しく見てみようと思いこのようなブログを立ち上げました

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